戦没者遺骨を家族の元へ
国内外に放置されている113万の遺骨を故郷・家族に!
国内外に放置されている遺骸
アジア太平洋戦争はまだ終わっていない
左の写真は2015年3月、インドネシア・ニューギニアのビアク島で撮影されました。
現地住民が畑を耕すと、こういう日本兵の遺骸が次から次へと出てきます。
この方は防毒マスクから関東地方からの兵士と想像されます。この方には故郷・家族があるはずです。
戦後70年以上が経過し、戦没者の親は亡くなっています。遺児の高齢化も進んでいます。しかし一方で、科学技術、特にDNA鑑定の技術も格段に進みました。昔は一括に焼骨していた遺骨が、今なら家族の元へ返すことができる可能性が増えているのです。
今からでも遅くありません。
113万の遺骨を故郷・家族の元へ!
沖縄戦遺骨のDNA鑑定実現
民間人遺族も対象に!!
沖縄戦遺骨収集ボランティア・ガマフヤー(洞窟を掘る人)は、沖縄戦遺族の皆さまに、DNA鑑定集団申請の参加を呼びかけます。民間人遺族も参加可能になりました。(無料・第2次締め切り11月末・申し込みはガマフヤー代表:具志堅まで)
戦後71年の2016年3月、「戦没者遺骨収集推進法」が成立しました。現在も続く発掘遺骨を家族に返すことを定めた画期的な法律です。2017年3月末、厚労省は沖縄戦戦没者75体の遺骨のDNA鑑定の結果を、300余人の軍人遺族と照合した結果、「身元確認できた人はなし」と発表しました。その後、厚労大臣は4月20日国会で「厚労省の側から直接個別に呼びかけるだけではなくて、広報を広く通じて・・遺族の側からのDNA鑑定の申請を募る」と答弁しました。当初、厚労省のDNA鑑定方針は、軍人や「死亡地など記録が残っている」人に限られていましたが、民間人遺族も参加でき、死亡地の記録の有無についても柔軟な対応を取ると表明するに至り、8月31日時点でガマフヤーを通しての第1次集団申請135名の遺族を含む200名以上の申請が受け付けられました。
今後も、ご遺骨のDNA鑑定が広がります。ご遺骨を家族の元へ返すためにDNA鑑定の第2次集団申請に参加しましょう。12月はじめ厚労省への名簿提出を予定しています。
① 戦死者氏名 ②遺族住所・氏名・電話番号 ③戦死者との続柄 を電話・FAXでお知らせください。
FAX:098-862-6622 電話:090-3796-3132 (具志堅隆松)
★ 集団申請の第2次締め切りは、2017年11月末日とします。★ 費用は国の負担で無料です。
後日厚労省からご遺族に連絡。DNA鑑定の申込書類が届きます。その後DNA鑑定キットが自宅に送付。DNA鑑定は口内を綿棒でこすりDNA検体を採取する簡単なものです。
「戦没者遺骨を家族の元へ
6・22沖縄集会」を開催!
2017年6月22日、沖縄県浦添市社会福祉センターで、ガマフヤー主催「戦没者遺骨を家族の元へ」沖縄集会を開催しました。沖縄戦遺族へDNA鑑定集団申請を呼びかける集会です。事前に琉球新報を始めマスコミが大きく取り上げましたが、参加が広がるか不安なまま。しかし受付を始めると参加者が次々と見え、たちまち会場は一杯に。国会議員の赤嶺政賢議員、白真勲議員の参加もありました。(川田龍平議員は集会メッセージ)
ガマフヤー代表 具志堅隆松
「ガマの中から遺骨を探して遺族に返すことをやってきた。国は名前の書かれた遺品が一緒に出てくる条件をつけたが100体中5体もない。2008年シベリアの遺骨を全部DNA鑑定した。沖縄もやってくれとずっと要請してきたが、国は南方だから難しいと言ってきた。ところが、2009年真嘉比から出た172体のうち記名のある万年筆と一緒に出た遺骨があった。平和の礎で名前を検索し千葉の方とわかり、地元新聞で呼びかけると遺族から連絡が入りDNA鑑定の結果、遺骨を遺族に返すことができた。DNA鑑定で返った初めての人だった。沖縄では県の仮安置所に遺骨が700体ある(その後、南北の塔から600体も加わり計1300体)。DNA鑑定が昨年7月から始まり、国は遺骨の出た所にいた日本軍部隊名簿から戦死者遺族301人に呼びかけ、調べたが1件も合わなかった。先ほどの千葉の人も遺骨は、戦死通知に記載された地名とは違う場所から見つかっている。問題は、国が呼びかける遺族を決めてしまっていること。遺骨から歯だけを検体にしているが、外国では歯を重要視せず、四肢骨から取っている。沖縄戦の特徴は、誰がどこで亡くなったかわからないこと。兵隊の犠牲より住民の犠牲が多かったこと。国は住民も鑑定に参加できると言っているが、国や県に任せておけない。7月に厚労省に集団申請をするので、今日申請書を書いて出して欲しい。申請は遺族が亡くなった身内に近づこうとすること。亡くなった身内を自分の所へ引き寄せようとすること、そのことが、亡くなった人にとって供養になる。」
白真勲参院議員
「厚労大臣にDNA鑑定の為には焼骨を止め保存すべきだと追及すると、千鳥ヶ淵にお納めしご供養するのが遺族のご意向ではないかと答弁された。米・韓ともDNAをデータベース化し遺骨を家族の元へ返している。一人でも多くの方をご家族の元へ返していかなければならない。具志堅さんと遺骨収容現場に立った時、木々が鬱蒼と茂った中にあるガマの横に、手榴弾と米軍の薬きょうがあった。72年間どういう思いでそこにおられたのか胸が痛くなった。何としてもお骨だけでも家族の元へ返してあげたい。私たちは国会でがんばります。皆さんと一緒に大きなうねりにしていきましょう。」
安田さん(遺族)
「沖縄でDNA鑑定という新聞記事に飛びついて一昨日電話し、今日の集会を知った。沖縄戦で兄と父、祖母とその兄弟12名が亡くなった。一つの遺骨も見つからない。具志堅さんがボランティアとしてガマフヤーをなさっていることに感激している。国に沖縄の人がもっと声を上げることを希望します。故郷に帰りたいのはみんな同じ思い。国がもっと早くしてくれていれば、遺族の亡くなる前にできたと思う。」
野原さん(遺族)
「1944年生まれで生まれた時には父は亡くなっていた。祖母と姉2人の4名が亡くなった。伯父と兄で父の遺骨を探しに行ったが見つからず、近くの石を拾って墓に納めた。戦争というのは惨たらしい。いまだに遺骨が遺族の元へ返されていない。一日も早くDNA鑑定で遺族の元へ返して欲しい。たくさんの遺族が待ちわびている。学校で保護者と言えば親父だが、同級生で父は3分の1。大多数は母の名だった。それぐらい激戦地だった。戦争は二度とやって欲しくない。辺野古に新基地建設、けしからんことを政府はやろうとしている。沖縄の自然を壊してほしくない。遺骨を遺族の元へ一日も早く返して欲しい気持ちでいっぱいだ」
上里さん(遺族)
「とにかく情報を得たいと思って来た。親は師範学校に行っていた兄の死を信じなかった。いつも水屋の中に洋服がきれいに畳んで入っていた。いつでも帰ってきたらすぐ着させられるように。それを昨日のように覚えている。2年前に墓を作ったが、中は空っぽ。力を貸してください。遺族の願いをかなえてください。」
沖縄戦遺族のDNA鑑定集団申請に向けて「戦没者遺骨を家族の元へ6・22沖縄集会」を開催
日時:2017年6月22日(木)午後2時から4時
場所:沖縄県浦添市社会福祉センター(098-877-8226)
主催:沖縄戦遺骨収集ボアンティア「ガマフヤー」(具志堅隆松代表)
「戦没者遺骨収集推進法」施行後、厚生労働省の作成した「作業等要領」では、「歯がある頭蓋骨のみを個体性有り」としてDNA鑑定対象とし、その他四肢骨のみ等の場合は「個体性なし」として鑑定対象外「残骨」として現地火葬されてしまう方針でした。
この間、私たちの運動と連携した国会でのやりとりを踏まえて、2017年3月31日塩崎厚労大臣から「戦没者遺骨のDNA鑑定の対象拡大の方針」が発表されました。「2016年度の沖縄県4地域(真嘉比・幸地・平川・経塚)の75の遺骨と関連する遺族から提出された301人の検体との照合の結果戦没者の身元特定には至らなかった。そして、2017年度は残る6地域の遺骨(歯)について遺族からの鑑定の申請を募る。そして四肢骨に関して、すでに歯について実施した75の検体のうち、四肢骨の存するものを対象に検証を始める」というものです。
現在の問題点として、①遺族からの検体の集まりが少なすぎる点、②鑑定呼びかけが軍人遺族にとどまり沖縄一般県民への呼びかけが行われなかった点、③厚労省が不確かな戦死記録に固執している点があげられます。
韓国では朝鮮戦争戦死者の遺族から集められた検体は3万人を超えます。それでも韓国において最大の問題は遺族の検体の「少なさ」だと指摘されています。高齢化する遺族に時間はないのです。DNAバンク(唾液を冷凍保存)と言う形でアジア太平洋地域の希望する遺族の検体保存を進めるなども検討するべきです。四肢骨(手足)の鑑定については、米韓の軍の研究所(アメリカDPAA/韓国遺骨発掘鑑識団)などでの調査の結果、試行的にでも取り組むようになりました。今まで遺族に返す対象にさえならなかったことからすれば一歩前進ですが、米韓から学ぶべきは、骨片をはじめ全ての遺骨を鑑定対象にしていることです。特に細胞の中で数が多く、長期間生存率が高いミトコンドリアDNAの抽出を中心としながら、核DNAの鑑定と組み合わせ、さらに人類学的骨鑑定・安定同位対比(骨の歴史を辿り出身地判定)などの最新科学を用い、歯科資料など前資料を総合的に組み合わせ個人特定しています。全ての遺骨を現地火葬せず保管し、鑑定を進めるノウハウなど学ぶ点が多くあります。ところが厚労省は、日本は米韓と違い前資料(徴兵検査の記録・認識票など)が無いので、ミトコンドリアDNAでは正確な鑑定はできないと見当違いの報告を行っています。
また現在厚労省は、ボランティア的に公立大学に鑑定を外注しています。四肢骨の鑑定について継続的・専門的・総合的に鑑定に当たる「人・施設・予算」が不可欠です。今年3月国会でも鑑定施設の必要性が参院予算委員会で総理に質問されています。今こそ沖縄で発掘された600体余りの遺骨を遺族に返す本格的取り組みが求められています。
沖縄戦遺族によるDNA鑑定集団申請を計画・韓国遺族も合流4月20日参院厚労委員会においては、塩崎厚労大臣は「厚労省の側から直接個別に呼びかけるだけではなくて、広報を広く通じて‥遺族の側からのDNA鑑定の申請を募る」と答弁しました。遺族の側からDNA鑑定の申請を募ることは画期的であり、大いに評価すべきものと考えます。
しかし手を挙げた遺族に対して国が死亡地の証拠を求める可能性があります。誰がどこで死亡したかわからないほど凄惨だったのが沖縄戦です。今まで沖縄県でのDNA鑑定で身元判明した4名の内2名の遺骨出土の場所と国の戦死記録の死亡地は食い違っています。不確かな戦死場所の記録に固執していては、DNA鑑定を希望するほとんどの沖縄戦遺族が、事業に参加できません。
そこで6月沖縄戦慰霊の日に合わせて「ガマフヤー」を中心に、沖縄戦遺族による「DNA鑑定集団申請」と集会を計画しています。希望する遺族が沖縄で出土した全ての遺骨と照合する方法へ抜本的に方針変更するよう国に求めます。韓国・米国をはじめ国籍を超えた沖縄戦遺族の参加申込も受け付けます。ぜひ全国からご参加ください。「戦没者遺骨を家族の元へ6・22沖縄集会」
ガマフヤー主催10・13「戦没者遺骨返還のあり方に関する国会内集会」を開催
沖縄戦遺族へのDNA鑑定呼びかけ開始を機に
日本遺族会長・水落 敏栄議員からのメッセージ
戦没者遺骨返還のあり方を考える国会内集会のご盛会をお慶び申し上げます。
本日の会を主催されました具志望代表のガマフヤーの皆様はじめ、平素よりご遺骨の帰還専業にお力添えいただいている皆様に、心より敬意と感謝の意を表します。
本日はご案内いただきましたが、どうしても都合がつかず、失礼いたしました事お詫び申し上げます。
長年のご遺族皆様の声を受け、平成25年自民党政務調査会内に設置された 「戦没者の遺骨帰還に関する特命委員会」の委員長として、1年半余りの慎重な審議の末、ご遺骨の帰還を推進する為の議員立法を作り、本年3月24日全会一致をもって、実に構想から3年がかりで成立いたしました。偏にご遺族皆様はじめ、関係各位の皆様のお力添えと心よりお礼申し上げます。
戦後70年余りが経過し、先の大戦が風化される中で、未だ113万柱のご遺骨が海外においてそのままになっている、また日本国内においても沖縄、硫黄島において1万柱余りのご遺骨が未収骨であり、こうした現状を知っている方がほとんどいない、忘れられた存在となりつつあります。
私は、こうした現実を報道機関や学校教育を通じて伝えることこそが、戦争の悲惨さ、平和の尊さを考えるきっかけになると考えており、この法律や、本日の集会、ガマフヤーの皆様はじめ、ご遺骨帰還専業にお力添えいただいている皆様の活動が、大きな一助となると思いますので、引き続き一層のお力添えを頂きますようお願い申し上げます。
私は、「ご遺骨の収集が終わらなければ、戦後は終わらない」この気持ちを胸に、ご遺骨の帰還に力を尽くして参りますので、皆様には引き続きの指導ご鞭捷き賜りますよう、お願い申し上げます。
一般財団法人日本遺族会会長 参議院議員 水落 敏栄
遺骨収集団体からのメッセージ
特定非営利活動法人 太平洋戦史館
特定非営利活動法人太平洋戦史館は「戦没者遺骨返還のありかたを考える国会内集会」に賛同し、10月13日の集会参加も含め、今後の活動に積極的に参画いたします。
私達はニューギニアソロモン戦域で、白骨化兵士遺骸傍で発見の番号や名前が刻まれた認識票、印鑑、万年筆、水筒、飯盒、鉄兜等遺留品を常設展示し、遺族に引き渡しながら遺留品の傍には、末期の水も貰えず戦死した兵士の亡骸が放置されたままの状態の証拠写真を示し、法医学者の鑑定と火葬そして遺骨帰還の戦後処理の重要性を訴え続けております。
"名誉の戦死者たち"が、ニューギニアのセンタニ湖畔プアイ村の生活ゴミ捨場に、サバ缶やボロ靴に交じって遺棄されています。隆起サンゴ礁の島、ビアク島には今でも、市の中心部の鍾乳洞等の中に、完全な遺骸を、容易に、確認する事が可能です。
個人特定は不可能ではありません。DNA技術も驚くほど進化しているので、一体でも多く、白骨化遺骸の身元判明につなげられるよう、団結しましょう。
日本兵遺骸に加えて、ビアク島やニューギニア本島の旧戦場には、今でも、日本兵が飲んだ「ルービンリキ」瓶、わかもと、ロート目薬のガラス容器のかけらが散乱しています。 破傷風等で子ども達が命を落とさないか心配です。
戦争の二次災害を防ぐ支援活動も重要です。
特定非営利活動法人 太平洋戦史館
会 長 理 事 岩 渕 宣 輝
ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動
歯以外の部位でもDNA鑑定ができるようになると良いですね。
僕は焼骨はしない方が良いと思います。
鑑定後に日本で焼骨等しかるべき措置を取るべきと思います。
一現場に携わってる者の意見として少しでもお役に立てれば幸甚です。
ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動 井本勝
参加した国会議員からの発言
(照屋寛徳 衆議院議員 社民党 国対委員長 沖縄県)
皆さんこんにちは。私はサイパン島の米軍の捕虜収容所で生まれました。もしかすると遺骨になっておったかも知れませんが、無事生還しました。ガマフヤーの具志堅会長とは沖縄において幾度となく日本軍あるいは民間人のご遺体発掘の現場に同行させてもらいました。この間ガマフヤーの皆さんから預かった遺体の歯をDNA鑑定のために何度も厚労省に届けたこともございます。私は日本兵あるいは民間人のご遺体をご遺族に返してあげたい、早く返してあげる、これは政府、国家の責任だと思っております。いうまでもなく、戦争責任に時効はございません。何年たとうが国家の総力をあげて、ご遺体をご遺族に一日も早く返してあげれるように私たちが声をあげて、ガマフヤーの皆さんをはじめ全国のボランティアの皆さんと一緒に国会内外でまたがんばっていきたいと思います。
(玉城デニー 衆議院議員 生活の党 党幹事長 沖縄県)
この遺骨収集の件については、先ほど照屋先生がおっしゃったように時効はない、しかしご遺族の皆さんには限られた時間ということで、一つでも少しでも早く私たちが取り組んでいけるように協力していくということで一つになっていきたいと思います。
(白真勲 参議院議員 民進党)
一昨日、私は国会予算委員会で安倍総理と塩崎大臣に質問させていただきました。冒頭、DNA鑑定についてどうなっているのかと聞いたところ、議事録を読みます。塩崎大臣、「現在これに該当する沖縄県の4地域については、DNA鑑定を進めてるところであります。この結果を今年度中にとりまとめて、ほかの地域をどうするか決めていきたいと考えています。」という答弁でした。そのあと私の方から朝鮮半島の軍人軍属やアメリカの兵隊さんの件はどうなっているのかと聞くと、「一義的には自国政府が責任をもって対応すべきと考えておりまして、仮に韓国政府から具体的な提案があればこれは検討すべきものと考えております。」という答弁は引き出しました。そのあと総理に聞きました。総理はこう答えております。「先の大戦の英霊のご遺骨の帰還については先ほど塩崎大臣から答弁させていただきましたとおり、最新の知見も活用しながら一日も早くご遺骨を帰還いただけるよう全力を尽くしていきたいと考えております。」と総理から答弁をもらったところでございます。私もこれからもしっかりがんばっていきたいと思っております。
(秋野公造 参議院議員 公明党 法務委員長 福岡県)
私自身、6、7年前の当選ですけど、具志堅さんと一緒に遺骨収容にあたりました。最初が西原の遺骨で、5体がほぼ完全な形で残ったものをどういう形で残すか、悩んだことを覚えております。質疑の結果、沖縄のご遺骨収容の予算を2.5倍増額させることにつながりました。その後も昨年からは私の子供たちも連れていき、沖縄の遺骨収容に一緒に回っています。現場で学ぶことが、沖縄の平和の心を見つけるうえで一番重要だと考えています。対象を拡大するということ、歯を用いた形でDNA鑑定を進めていくということ、そして沖縄だけではなく奄美に対馬丸で沈没して流れ着いた子供たちの遺骨が埋まっている可能性があることを地元の村長さんからご意見をいただいたところですので、具志堅さんとご一緒させていただいて、場所も特定させて国の調査も入ることも決まっています。地道な取り組みを一つ一つ続けていきながら、一人でも多くの方が早くお戻りされるように力を尽くして参りたいと思います。
(河野正美 衆議院議員 日本維新の会 厚労委員 国会議員団幹事長代理 福岡県)
私は、父親が93歳で亡くなりましたが、軍医としてフィリピンに2年くらい行っており、助けられる命を助けられなったということを、ずっとつらい思いを言っておりました。父は議員を社会党で8期やっていたのですが、衆議院議員としてずっと当時橋本龍太郎先生とかと一緒にフィリピンの遺骨収集をやっていたと子供心に見てきましたので、私も議員になりましてから所属政党は全く違いますけど、微力ながらこういった問題を関わらせていただきたいなと思ってやっております。皆様のご指導を仰ぎながらしっかりと支援させていただきたいと思っております。
(赤嶺政賢 衆議院議員 共産党 沖縄県 沖縄北方委員)
ガマフヤーの具志堅さんがここまでもってきたご苦労に対して、本当に敬意を表したいと思います。私も1947年の生まれでありまして、母方の祖父が戦後、戦争で亡くなった祖母を埋めた場所を探し回っていたことを子供心に覚えております。父親の畑の手伝いをするときには畑一面に散らばっていた遺骨の破片を拾い集めて、畑の四隅に積み上げる、当時はDNA鑑定で遺族の元へ帰すということは全くなかったと思いますが、そういうことが仕事でありました。沖縄の南部にも遺族に引き渡せないままのご遺骨がたくさん残っており、沖縄にとっては、あの沖縄戦がまだ終わっていない象徴としての遺骨を遺族の元へ帰すDNA鑑定をやるべきだというのも国会で何度も取り上げて参りましたけども、今日の集会をきっかけにまた改めて決意し直して取り組みを強めていきたいと思います。
(伊波洋一 無所属 参議院議員 沖縄県)
今回DNA鑑定ができるようになったことを受けて遺骨の確認ができるようになったということは大変いいことだと思っております。私は1952年の生まれですけど、沖縄激戦の嘉数高台というところの地区で生まれて、小さいころ山や谷の石の谷間に遺骨がまだ残っておりました。沖縄のお墓の中には沖縄戦で亡くなられた方の骨が入っていないんですね。ほとんどが南部地区で一緒に収骨されて、火葬に付せられるので、そういう意味ではこういう形でDNA鑑定ができることになったということを通して、確認していく中でこれが誰のだとわかるような遺骨に関しては、できるだけお手元に戻すということができるようになったということは大変大事だと思います。DNA鑑定の対象を広げることが実現できるように取り組んでいけるようにと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。
(堀内照文 衆議院議員 共産党 厚労委員 兵庫県)
私は厚生労働委員会所属で、昨年の立法の際には委員会として硫黄島に視察にも行きました。質疑には先ほどの赤嶺議員に沖縄の問題を取り上げていただきました。法はできましたけど今ありましたように遺族の元へ帰すというこの大事な目的のためにはまだまだ十分でない、やるべきことがあるんだということですので、私も力をあわせてがんばりたいと思っております。
(川田龍平 民進党 厚労委員)
今日はありがとうございました。こういう集会をやってはどうかという提案をさせていただいて集会を主催していただきありがとうございました。厚労省の方にもいろいろと質問を送らせていただいて、今日回答いただいたものに引き続き、特にアメリカ、韓国の遺骨のDNA鑑定についてはぜひもっとしっかり検討を進めていただきたいと思っております。今日はご遺族の話を直接伺って、戸籍にないYさんのようなケースであったり、今日、田端さんの話を伺って、本当にそういう待たれているご家族の方が日本にたくさんいらっしゃるんだということ、本当に私たちが忘れてしまっているんじゃないかということを強く思います。沖縄では忘れることはないのではないかと思うのですが、国会議員の人を含めてたくさんの方がいらっしゃいましたけども、本当にもっと多くの国会議員にもっと知ってもらいたいと思っていますし、これは国としてやらなければいけないことだと思います。岩淵さんのお話を伺っていても、国の責任において遺骨を収集するだけでなく、ご遺族にお返しするということ、ようやく今年の通常国会で通った法律の目的として明記されたものですから、本当にしっかりこれを国としてやっていくことがすごく大事なことだと思っています。先ほど有光さんの話にもありましたけど厚生労働省だけではなく、国としてやらなければならないことであるならば、もっと本当に急がなければならないですし、今日お話しを伺ってきたプーチン大統領も日本に来ますし、ロシアとの関係でいえば大変大きなチャンスだと思いますので、ぜひそういったことも頭に入れながらこれから国会でやっていきたいと思います。沖縄のこともそうですし、いろんな国のことも国会で質問させていただいておりますけども、時間がないなということを思っています。遺族の方が高齢になっていらっしゃって、そういう意味ではDNA鑑定をまず遺族の方のDNAをまず採取させていただくということをまず優先してでもやっていかないといけないのではないかとずっと思っていますし、本当に早くやらなければ取り返しがつかないことになってしまう、本当に国として亡くなった方に対する、今は荼毘に付すことが亡くなった方へのためと思ってやってきたことがあったのですけども、そうではなく、ちゃんと遺族に返すというところまでをしっかりやっていくように国としての方針を変えさせていく、そういう法律になっていますので、しっかりとこれを受け止めてやっていくことが大事なことだと思っています。そういう意味ではもっと多くの国会議員に、今日もたくさん来ていただきましたけども、ぜひもっと多くの人にこの思いや気持ちをしってもらうように国会でこの問題を取り上げてやっていきたいと思います。こういったことが、国のために何ができるのかなと思う人が若い人たちの中で、国とかそういうものが一生懸命社会や国のためにやってもそれが報われないような社会にしてしまってはいけないのではないかと思います。僕は国に嫌な思いをさせられてきたものですので、国ということに対してすごく悔しい思いがありましたので、国が本当に国民のためにあるものであって、国民のために国が仕事をするということをしなければいけないと思いますので、ぜひしっかりとこの遺骨の問題についてはしっかりと取り組んで頑張っていきたいと思っています。これからも皆さんと頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。
遺族からの発言
(渡邉鶴雄 沖縄戦遺族 千歳市遺族会会長)
沖縄が日本に帰ってきた昭和47年よりずいぶん長いこと沖縄へいっております。何のためにかというと、私の兄2人が戦死したわけですけど、一人は北支で次男の方は沖縄で戦死したのです。長男の方は戦友たちが荼毘して北支から持ってきてくれたので遺骨は帰っているのですけど、沖縄で戦死した次男の方は遺骨は・・・、箱は帰ってきたんですけど、中にはサンゴの石ころ一つで、その時昭和20年7月は、二人の兄が亡くなって、両親の悲しみ、悔しさ・・・。私もその時小学校3年生で、その怒りと悲しみが一生忘れられず、毎年のように沖縄に行って、4年前に具志堅先生とお会いして、やっとその時戦死した場所がわかったので、具志堅先生のお手伝いも兼ねて掘ってみたら、結構遺骨は出てくるんですね。私は江差の方で生まれたのですが、320人の方が精魂之塔で亡くなっているんですね。遺骨は出るんですけどDNA鑑定の結果が出ないということで大変苦労しているのです。ただ一体が出ないという悲しさはありますけど、早く兄の遺骨を出してDNA鑑定をし、父母のもとに一緒にお墓に入れてあげたいという一心で毎年沖縄の方に通っております。沖縄の島でDNA鑑定をやって早く遺骨を返していただきたいと思います。遺骨を返す時には親がいなくなっているという結果になると思います。2014年にアメリカから兄の日章旗が帰ってきました。遺骨がないながらもそれが兄の形見だと思って安堵しているわけです。この旗を沖縄に持って精魂之塔へ行って、坊さんを頼んでお参りしました。今度は本人のお骨をいただきに沖縄に行きたいと思いますので、どうぞご協力をよろしくお願いします。
(具志堅)
ありがとうございました。後方の壁に飾ってある日章旗は渡邉鶴雄さんのお兄さんが出征の時に持って行った旗です。お兄さんのヨシオさんは那覇市首里、石嶺の精魂之塔の近くで亡くなったと言われています。この旗は戦時中アメリカ軍の兵士が拾ってアメリカに持ち帰って、それが巡り巡ってようやく家族の元へ帰ってきたという旗です。本当に奇跡的なことです。そして渡邉さんについて言うと、毎年沖縄に通って発掘を一緒にやっています。今回沖縄のDNA鑑定の対象は4つの地域になっています。その石嶺というところは、その一つの西原町幸地の隣接した場所です。同じ部隊がその幸地と石嶺にまたがって布陣、戦争を展開していたわけですけど、片や西原町幸地は対象になる。地域が異なるだけで、幸地の延長である石嶺は対象になってないんですね。ですからぜひとも今回こういった同じ部隊でありながら地域の呼び名が異なっているがためにDNA鑑定の対象とならない人たちも救済してほしいということが、今渡邉さんがおっしゃっていたことです。このことは多くのご遺族からも同じような意見が寄せられています。
現在、厚生労働省から今回沖縄でみつかった遺骨のDNA鑑定が展開されております。
(Yさん)
本日はこのような時間を賜りありがとうございます。帝国陸軍第5方面軍第32軍第24師団3490病馬廠獣医大尉岡田芳廣孫、Yと申します。こちらは母です。母は祖父の一粒種だったのですが、沖縄には北海道から満州へ渡り、始めのころは旭川の第7師団で野砲をやっていました。その後、獣医の士官教育を受け、満州へ渡り軍馬育成、その他もろもろをやりまして師団病馬廠司令部の獣医として沖縄に渡りました。内閣府の沖縄戦資料閲覧室というのがございまして、24師団に関します資料、陣中日誌、将校たちが残した実録です、これは端から端まで全部隊読みました。なぜなら彼は司令部付の病馬廠でありますから各連隊と関わりがあります。ということで全部読んだのですが、岡田芳廣の娘、登志子というのは、実は戸籍がありません。ですからこの尊い案内というものが私たちにはこないという現実があるということを今日皆さんに知っていただきたいと思います。戸籍がないものの子どもの権利のことです。祖父は、一体何を一番心配して死んでいったのでしょうか、やはり愛するわが子ではないでしょうか。馬のお医者さんなんですが、バックナー中将が6月18日に沖縄で亡くなっていますけど、同日ですね、すぐ真裏で彼は亡くなっています。17日に最後の掃討戦がありました。5月24日、首里城の裏の「弁ケ岳べんがだけ」の東北地帯に彼は特編部隊を組まされまして、そこで53名で満州から出立した彼ですが、6月5日に師団長雨宮巽中将から指示を受け、新垣に向かって集結した時には20名の部下を失っていました。彼は前半は歩兵で野砲をやっており、後半は獣医でしたが、ハイブリッド軍人だったのでそこまで残れたと思います。彼は家に帰る、家族のもとに帰る権利があるのではないでしょうか。私たちには戸籍がない、しかし直系は彼女、一粒種しかありません。こういった事実もあるということを知っていただきたいのです。推進法の第9条に、「体制整備及び研究の推進その他必要な措置を講じる」とあり、ここに含まれると理解して大いなる期待を寄せております。また28年4月8日の安倍首相の答弁として、「遺族からの幅広いDNA検体の提供の仕組みについて検討することとする」と明確に言っておられるわけです。このへんをまずお力のある国のリーダーの皆さんに知っていただきたいと思います。
もう一つは、今まで日本は世界中から憧れられている国なのに、この部分だけはなぜかひっそりとしている。どなたかが行方不明になったり、どなたかが遭難されたら沢山の消防員、自衛隊員の方が動くのに、国の礎になった、当時のすべてを燃やして尽くして捧げた人たちがどうしてあまり気づかれないんだろうと正直残念に思っていました。でもここに来て思い直し、真の先進国、道義的責任を理解できる国家となり得たんじゃないかととっても期待している。具志堅さんがおっしゃった修正事項、色んな諸問題にぶちあたりながら歩を進めていけば必ずやこれが、やっぱり日本はすごいな、日本は違うと思ってもらえるような国にもう一度なれると私は思っている。先頃も占守島の闘いで亡くなった戦没者のお一人がDNA照合があってお帰りになられたということが果たされましたのでゼロではないと思います。沖縄に間違いなく祖父はいるんです。祖父がいてそこで戦ったんですね。細かいことはわからない、最後は陣中日誌をたどって、真栄平、新垣あたりにいたことはわかりましたが、そこにいるのに見て見ないふりするのは私はできないです。また沖縄には毎年いろんな国から、自分たちのアルバイト代を貯めて、たくさんの国から若者がボランティアで遺骨収集を自分の時間とお金を使ってやりにきています。自分たちは地球の平和をつくりに来ているという感覚じゃないでしょうか。このチャンスをなんとか前向きに皆さんと一緒に進めたいと思いますので、こういった事情もあることをご理解いただきますよう、よろしくお願いします。
(具志堅)
Yさんの話を要約させてください。Yさんのお母さんのお父さんが沖縄戦で戦死されています。ただ、Yさんのお母さんの婚約者として亡くなられているのです。実際に戸籍に入る前の話になってしまっていたので、現在DNA鑑定を申請しようとした時に、実子であるにも関わらずいわゆる戸籍上の証明ができない。実際の子供であるにも関わらず。今、Yさんのお母さんのところにDNA鑑定の通知が行くのでしょうか、いかないのでしょうか、そのことをお聞きしたいと思います。このことはYさんだけの話ではない。日本中にはこういった方がたくさんいらっしゃるということを私は聞いています。役所の戸籍でもって親子関係の証明ができない、それでもやはり実の親であるから遺骨を手元に引き取りたいということでの質問としてお答えいただきたい。
(厚労省)
私どもの調査は、昭和20年当時の留守家族の連絡先を元に各都道府県に戸籍を通じてご遺族の調査をお願いしていますので、ご指摘の場合は残念ながら、戸籍を頼りにしていますので最終的な連絡先に行き着かないのだろうかと思います。この4地域に関しては、各都道府県には依頼申し上げているが、この2500名余りの戦没者すべてについて行政側の調査だけでたどり着けるかについてはやや心配な面もございますので、一定程度都道府県の調査が終わりまして、連絡がつかない戦没者がいた場合は何らかの方法で私どもから呼びかけることも検討したいと思っています。
(具志堅)
ただいまのお答えは、Yさんの祖父にあたる方とお母さんとが親子関係であるという以前に、祖父の系統に通知が行くということでしょうか。
(厚労省)
対象になっていればそういうことになると思います。通知をご覧いただければと思いますが、ご親族の中でお声がけをしてくださいとしておりますので、例えば戸籍上のつながりがないとしても親族としての日常の連絡がある場合、連絡が行くことも期待されている。それに該当するかは個々に調べられないので、最終的には先ほど申し上げたようなことも考えていきたいと思います。
(具志堅)
今の答えを明確な答えとして良いのか判断しかねるのですが、実子が申し出た場合は対応してしかるべきではないかというのが私の率直な考えなのですが、ほとんどの人がそう思うと思うのですが、戸籍のつながりが確認できないとなると、だからこそDNA鑑定があるのではないかと捉えますけど。
(厚労省)
戸籍のつながりがDNA鑑定申請の要件ではありません。ご親族であるかどうかが重要な要素でありますので、何らかの方法で確認できれば当然対象となりうるものと考えております。
(具志堅)
わかりました。これは一歩前進の答えとして受け止めたいと思います。ありがとうございます。(拍手)
(司会)
時間が逼迫してまいりました。引き続き沖縄戦遺族の田畑一夫さんにお願いします。
(具志堅)
田畑さんについて、沖縄戦ではこれまで4体DNA鑑定が判明して帰った方がいます。そのうちの4番目のご遺族です。お父さんの田畑こうぞうさんの遺骨が見つかったのは浦添市の前田小学校の正門前の工事現場でした。ご遺骨は奇跡的なことですが、田畑という印鑑が確認できました。遺族を探したいということで沖縄の新聞で報道したところ、その記事がヤフーニュースに載りました。それを見た田畑さんの娘さんの旦那さんが田畑さんに伝えて、新聞社に連絡して、もしかして父親ではないかということで連絡が来ました。沖縄戦で田畑さんという方がどのくらい亡くなったかということを調べると確か39人だったと思います。その中で一番熱心にお父さんを探しておられた方です。後日厚労省からのDNA鑑定で血縁関係が判明したということで連絡が会った時私も非常に嬉しかったです。これから第2、第3の田畑さんになりたいと言うご遺族のためにも一言お願いします。
(田畑さん)
みなさんこんにちは。田畑一夫です。東京の町田市に住んでおります。父、田畑こうぞうは大正2年生まれで樺太町大泊より出征しまして、昭和16年10月に秋田県隊に入隊しました。それから満州国東安省の東安第270部隊の岩切部隊佐藤隊に編入されまして、昭和19年に沖縄に移動しました。それで昭和20年5月29日沖縄本島山川の戦いにて戦死を致しました。このたび具志堅さんをはじめ沖縄県民のみなさんまた関係省庁のみなさんにたいへんお世話になりましてありがとうございました。長くなりますが、今年1月に母が101歳で亡くなりまして、父の遺骨の横に母の遺骨をぴったりとつけてます。何とか長男としても務めを果たせたと思っております。(涙)みなさん本当にありがとうございました。(拍手)樺太町大泊には軍港がございまして、ソ連の空爆がなかったので空襲という体験は一切しておりません。それで遺族のもとに資料が残っていました。先祖から「この資料は大切にしろ」ときつく言われておりまして、具志堅さんから情報いただきまして、新聞社の方に国立公文書館に行っていただきまして、田畑さん間違いなくお父さんの、具志堅さんが掘り出していただいた印鑑と成田さんのお守りと部隊兵役銘板ですかね、これが部隊と照合されましてDNA鑑定ができるきっかけになったと思っております。だから私はよかったんですが、これから探す方は自分たちばかりでなく孫子の時代まで戦死された方の資料があればそれはずっと保存しておいたほうが後々役に立つと思われますので一言申し添えておきます。ありがとうございました。(拍手)
(具志堅さん)
ただ今の田畑さんのお話で大事な点があります。それは田畑さんの手元に届いた戦死通知では、山川方面の戦闘で戦死と記載されています。しかし実際、遺骨が見つかった場所は、浦添市前田です。これは沖縄戦の特徴である誰がどこで死んだかわからないということを如実に物語っています。これまで沖縄戦の犠牲者でDNA鑑定で4体判明しています。そのうち2人の方とは連絡を取ることができて、同じように戦死場所はどこですかと聞きました。2人とも異なっています。これは沖縄戦の特徴である誰がどこで死んだかわからないということです。今、厚生労働省が4か所で見つかった遺骨と遺族のDNA鑑定を行っていますが、私はこのことは非常に危ういと思っています。沖縄のような狭い場所をなぜ4つに細かく区切ってDNA鑑定をする必要があるのか、沖縄で死んだというのであれば、沖縄で見つかった遺骨全部と照合して差し支えないのではないか。むしろそういうことを考えています。これが遺族に関する問題点です。後、遺骨については沖縄では去年6月までで600体あまりたまっている遺骨のうちDNA鑑定の対象になるのが87体です。これは歯がある遺骨をDNA鑑定の対象にするということでそうゆう風な結果になっています。歯以外からもDNAは採れます。にもかかわらず。戦没者、戦争の犠牲者で歯がある、ないによって帰れる、帰れないということは不公平が生じてると思っています。これは戦没者のためにも遺族のためにもやはり、できるだけ体のどこの部位を使ってでもDNAを取り出す、そして遺族の元へ帰す、そういう心意気が国にあってほしいと思っています。(拍手)
(司会)
ありがとうございます。それではもう一方、遺族であり、遺骨調査にずっとニューギニアに通われている、岩手から来ていただきました、太平洋戦史館の岩淵さんからご挨拶いただきたいと思います。
(岩淵宣輝 太平洋戦史館 代表理事)
昨年までは戦争のことで70周年とメディアは賑やかだったけど、今年になって何なんですかと。熱しやすく冷めやすい典型がマスメディアなのではないかと思います。今年は復員70周年の年ですが、沖縄を含めて、皆さんがまたこういう声を上げ始めてくれたということを非常にお喜び申し上げたいと思います。先ほど照屋先生の方から我が意を得たりという言葉が出ました。「ご遺骨」という言葉はやめていただきたい。死者の方からも言わせてもらいます。300回以上ニューギニアに行っていて死体と一緒にいると、なぜこんなに人格を無視したことを日本人がやっているのかということを叫ばなければならないのです。フィリピンでもインドネシアでもいろんなところから骨が出てくるけども、それは人骨という言い方をします。「骨」にしちゃうと、山手線の中でなくなると、遺失物一時預かり所で扱われます。「遺骨」は「モノ」です。そこには人格も何もないので、先ほど照屋先生が何度も「ご遺体」という言葉をおっしゃっていただいたので、その辺のことは少し考えながら記事にしていただきたいと思います。私たちはソロモン戦域で白骨化した兵士の傍らで発見した番号や名前が刻まれた認識票や万年筆、水筒、飯盒、鉄兜などの遺留品を常設展示しています。中尊寺からたった2キロのとろに私の私設の常設展示場を持っています。遺族に引き渡しながら、遺留品の傍らには末期の水ももらえず戦死した、すなわち死者儀礼も施されない兵隊さんたちの亡骸が放置されたままの状態の証拠写真を示しながら、そういう事実を伝えることをやってきております。今でもニューギニアでは、生活ごみの中に転がっている状態です。司会の古川さんとも現地へ行っていただいたり、ニューギニアへは韓国の遺族の方にも行っていただいて共同作業もしていますけども、100万人以上の兵隊さんが海外に放っておかれています。ニューギニアの場合隆起サンゴ礁の島ですから、骨にならないでいます。このまま放っておきますと、負の遺産を海外に放置している大日本帝国と書いてある軍票も同じですけど、片付けられないことがたくさんあります。厚労省だけの問題だけじゃなくて、やらなければならないことが国民全部にあります。西部ニューギニアに関して言えば、議員の先生はさっきお見えになった阿部とも子先生一人だけしか行っておりません。いろんなことを含めてまだまだ議員連盟に現状を確認していただきたいことがありますが、これがスタートです。やっと70周年で何かできたと思います。お呼びいただきありがとうございました。
(司会)
ありがとうございました。あともう一方、遺骨収集団体として参加いただいております、シベリア抑留者支援・記録センターの有光さん、一言お願いします。
(有光健 シベリア抑留者支援・記録センター)
私の方はシベリアの遺骨収集に協力、支援をしているのですが、地域によって環境がずいぶん違いますし条件が違いますので、一概に申し上げることができないとは思うのですが、ざっくり申し上げてシベリアの場合はおよそ6万人の方がシベリア抑留で亡くなられて、厚労省の数字ですと5万5千人ですが、そのうち遺骨が戻っているのがまだ半分に満たないわけです。3万以上が向こうにあるということですので、状況としてはまだ広い地域ですし、また寒い凍土ですから、遺骨ご遺体の状態はかなりいいわけですね。昨年私も参りましたが森の中に埋葬された土饅頭がまだたくさんありまして、行けば必ず確実に取れるわけですね。ところが政府の方で派遣している遺骨収集団、これは期間も限られておりますし人員も限られていますから昨年の数字ですと全部で157柱しか収集できていない。そうすると3万という数を考えると、このペースだとあと200年かかっても終わらないという話なんですね。これをどうしたらいいのかというのは私どもとしても悩んでおりまして、抜本的に方針を考えないと、新しい法律ができて新しい受け皿が尾辻会長のもとできておりますけど、それだけではとてもとてもできる事業ではないのではないかと考えております。一つ私どもで議論しておりますのは、自衛隊法を改正して自衛隊の業務として国の業務としてちゃんとやってもらうということも、そしてロシアなんかの場合は先ほど占守島の話が出ましたが、占守島に渡るにはロシア軍に航空機かヘリを出してもらわないと行けないんですね。今までも実態的に地域によってはロシア軍の協力も得てはおりますけど、もっと本格的に国の事業としてロシア軍と自衛隊の共同事業としてやらないと、夏場しかできませんけど、今やっているように10日とか2週間とかではなく、2か月3か月、現地にテントを張って、自己完結的な能力を持ったところでやらないと、これはとても間に合わないのではないかという印象を持っております。自衛隊の派遣に関しましては憲法9条とか、特に沖縄では感情の問題がありますから、そんなに簡単ではないですが、すでに中国の遺棄化学兵器の処理に自衛隊が行っているわけですから、そしてソマリアであったりスーダンであったり、自衛隊が監視業務ですとか人道目的の展開をしてますから、そのあたりも含めてダイナミックに考え直さなくてはこの問題前に進まないのではないかと考えています。来週10月19日がちょうど日ソ共同宣言60年になりますので、午後2時から衆議院第2議員会館でその集いもやりますが、その時に遺骨の問題も含めて8項目の新しい提言をさせていただきたいと考えておりますが、今までの発想をもう一歩発展させるような議論をやっていく必要があるということを今感じております。